大正ロマンと建築
【※2015年2月27日の記事を再編集しています。】
おはようございます。
「和みの一級建築士」オカです。
ある友人に、フェイスブックの投稿が長いことについて「なんかあったん?どうかしたん?」と聞かれました。
ある人の影響で、フェイスブックを使って、自分の知識の棚ざらえをしてみようかと思ったんです。
投稿については、以前から書き溜めていたものを見直しながら書いているのであまり苦にはなっていません。
でも、それに書き足しているので長くなりますね~。
ごめんなさい。
ご興味のある方はお付き合いください。
バリバリだぜぃ!!
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以前、お客様と住宅の設計の打合せをしていました。
どのようなデザインがお好みなのかヒアリングをしてたんです。
そのとき、お客様のイメージのキーワードとして「大正ロマン」という言葉が出てきました。
何気なく、「あぁ、和洋折衷ですね。」と答えたんです。
でも、イメージとしてはわかっていたのですが、はっきりと成り立ちまでは知りませんでした。
それで、大急ぎで調べてみたんです。
大正ロマン(たいしょうろまん「大正浪漫」)というのは、
大正時代の雰囲気を伝える思想や文化をについていわれる言葉らしいのです。
(ロマンを浪漫と書いたのは夏目漱石が始まりらしいです。)
大正時代というのはどんな時代だったかというと
明治の西洋文化の模倣の時代から離れ、新しい文化を創ろうとした時代だと思います。
よく「大正デモクラシー」といいますよね。
出典:https://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/101.php
第一次世界大戦の特需景気もあいまって、新しい時代の理想に満ちた風潮に乗り、
自由と平等をスローガンとし、民衆と女性の地位向上をめざしていました。
そして、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などが盛んになりました。
しかし、大正時代の後半に入ると、大戦後の不景気や関東大震災の影響で、
ある種の退廃的かつ虚無的な気分も出てくるようになったんです。
官憲の弾圧に抵抗し、社会変革を求める政治運動や処罰を覚悟しながらも自ら主張する自由獲得への情熱。
新時代への飛躍に心躍らせながらも、同時に社会不安をもつ葛藤がありました。
むしろこれらのことが「大正浪漫」に叙情性を与えて、人々を惹きつけるのだと思われます。
大正ロマンというのは、二つの異なったものがうまく融合した文化のように思えてなりません。
つきつめていけば「和洋折衷」と思うんです。
新時代の明るい理想と不安感。
西洋の合理主義と日本の情緒性。
「新しいもの」と「古いもの」。
「はつらつさ」と「けだるさ」。
洋装と和装の使い分け。
男性社会の中の女性の地位向上。(ハイカラさんがいく)
外向きの合理性、男性原理の「洋」と、内向き情緒性、女性原理の「和」が
うまく融合しているように思えます。
その異なったものの絶妙の組み合わせが、魅力的なものにしているのでしょうね。
(※「和」の部分を少なくし合理性を高めたのが、次の時代の「昭和モダン」です。)
建築に関して言えば、大正ロマンの建物は、いわゆる洋館をさすことが多いようです。
それは、日本人が欧米文化を単なる模倣から離れ、うまく咀嚼してデザインし、
自分たちの使い勝手のいいように考え、和文化の趣味を施し、住みやすいようにした住宅です。
応接間として洋間を構え、居間や寝室は畳敷きの和室とし、
厨房には、従来の「座り流司(ながし)」にかわり最新式の「立ち流司(ながし)」を備えました。
建物の端々にも、和のデザインがさりげなく施されています。
アメリカ人建築家のフランク・ロイド・ライトやウィリアム・メレル・ヴォーリズも日本に名建築を多く残しています。
でも、実施に当たっては日本の技師の力が必要だったんだろうと思います。
また、建築を発注する施主も茶道を始めとする和文化に造詣の深い方が多く、こだわりの発注をされたのは想像に難くありません。
このようにして、洋と和の文化が融合することにより、
後世に、大正ロマンと呼ばれる建築が生まれたのだと思います。
私は日本の伝統構法・板倉造りで住まいを造っています。
やはり和と洋が融合した大正ロマンに惹かれるのです。